フレオ・イグレシアス
日が暮れたら海亀が襲って来る。
そんなときにフレオ・イグレシアスのレコードをかけること。
私は引用があまり好きじゃない。
会話ではよく使うけど、創作物に使っているのはあまり好みじゃない。
創作物は、その人の創作物であるために、すべての言葉に意味とか雰囲気を構成する一因とかその人らしさとかがあると思う。
特にミステリーとか。言葉選び、文章の作り方、語感。
小説を批評するときは大抵その小説の文章についても触れると思う。
女性っぽいとか男性ぽいとか。春樹っぽいとか森見っぽいとかいろいろ。
言葉選びとリズムだけで同じ話でも全く別の雰囲気を帯びたりする。
その言葉選びの中にも、引用という選択肢がある。
それはセリフだったり、作品のタイトルだったり、行動だったり、物だったりする。
例えば、告白するシーンで女の子が
「好き好き大好き超愛してる!」っていうとか。
多分舞城知らない人がみたら、(あっこの子はすごく好きなんだな…)って思うと思う。
分かってる人には分かる。これぐらいなら。
でももっとわからない難しい言葉とか、常用じゃない言葉の場合、
引用でないことが分からない上にその言葉が伝わらなかったら全く分からないと思う。
日没に、フレオ・イグレシアスのレコードをかけること。
元ネタを知らないと、知ってても伝わらない気がする。
春樹だからできる芸当というか。
そもそもこんな大きい言葉、春樹とかしか使えない気がする。
強い作家が使うからこそ迫力があって、迫真がある。
でもこの言葉の迫真性を持たないまま、ふつうの人が、日没にジャズのレコードをかけたって海亀は去っていかない。
だって何の意味もないから。
何の力もないから。
引用のこわさって、少しも元の言葉の迫真性を引き継げないところにあると思う。
その言葉は、元の小説の中にいるから力を帯びているのであって、
そこだけ抜き出したって強い文章にはならない。
その文章を一番うまく使えるのは作者で、それ以外にいないんだから。
海亀に襲われたときレコードをかけようとしてしまう人がいないか怖い。
その海亀は海亀の形をとった日没にやってくる何かで、きっと人それぞれに違うのだと思う。
誰もが別々の海亀と戦っていて、それを退ける方法もまた違うんだと思う。
それが解釈なのではと思う。
私は他の人たちがどう海亀と戦うか知りたい。それを真似しようとは思わないけど。
でも言葉の力って強くて、フレオ・イグレシアスって聞いたらそれ以外思いつかなくなるし、
私の貧乏もチーズ・ケーキのような形をしているように思えてしまう。
現に私も、好きな香水は? って聞かれたら、エスカーダのイビザヒッピーって答える。
その引用でしか答えられる香水がない人生ってなんか寂しい。
けど、違う答えを返せるようになったらそれはそれで、卒業というか何かが終わった気がするんだと思う。
強い人の言葉の力に負けないようにしたい。
好きな人の言葉を少しずつ取り込んで、その迫真性をちょっとだけでも帯びられたらいいなあ。
いま、ここにバケツがあったら、水を汲むと思う
異国感
なんだかどこへ行っても見知った感がある。
安心感がある。それってすごく怖い。
私は行ったことのない場所が結構怖い。
例えば友達の家に遊びに行くことになって、見知った大通りから知らない住宅街の細い道へ入っていくこと。
京都だから大抵まっすぐなのだけど、ちょっと曲がると、もう駄目。先導してくれる友達がいまぱっと消えたらちゃんと帰れるだろうかとか考えだす。
町並みとか目印を確認するために挙動不審になる。だって怖い。
帰り道、やっと大きな道に出るとほっとする。涙が出そうになるくらい。長旅を終えて家に帰ってきた気分になる。
最初に挙動不審になるかわり、一二回行って慣れると、もう我が物顔になる。余裕になる。「もうこのへん私完璧ですよ」って思う。
そのうちに「京都の住宅街の細い道」に入ること自体に慣れてくる。
「この先十分くらいいくと堀川にあたる」とか「もうちょい下がると御池通だな」とか分かりだす。そしたら知らない細道へ入ることもそんなに怖くなくなってくる。
そうやって余裕を持てるようになると、いろんなところへ行けるようになる。
方向感覚は良い方なので、大抵迷わず行ける。それで道を覚えて、またそのあたりも安心して通れるようになる。
勝手を知らない町の通ったことのない道→恐怖
慣れた町の通ったことない道→不安
通ったことある道→安心
恐怖<不安<<<<<<<<<安心
もう安心したら我が家感覚。
通ったことある道と我が家で何が違うって個室か個室じゃないかって感じ。
それはさすがに嘘だけど。
じゃあ我が家と外の安心できる場所の違いってなんなんだ。
転勤族で、不安→慣れる→転勤→不安…のループを繰り返しすぎてせいか、
自宅感があんまりない。
仮の宿りという感じです。
いまここに住んでるから安心できるけど、引っ越してもきっといつか安心できるんだろうなってずっと考えてる。
だから、「京都に住んで慣れること」が「まだ知らぬ未知の場所に慣れること」になる。
特にネットとか発達してるし。マップがあれば怖い道なんてないんじゃないかと思う。
じゃあどうやったら自分の家に唯一の自宅感が持てるのか。全然わからない。
私は引っ越すことになれすぎてるから、というわけでもないけれど、これから引っ越してもあんまり怖くならないのだと思う。
きっと京都に来たときより早く慣れるだろうし、すぐ安心できると思う。
実家は一軒家だけど、もう一旦引っ越してしまうと全く自宅感がない。別に自分の部屋だった場所だなってだけ。
今まで使ってた家具とか、本とか、配置とかを兼ね備えたら空間的にそれはもう自宅なんだけど、
それと土地がもっとうまく結び付けられたらいいのにと思う。
それを結びつけるのは私一人ではなくて、他の人との関係なのではと思う。
他の人もどこにいっても新しい人に出会えるけど、新しい人と仲良くできることを自惚れることは一生できないなあ。
できたらその土地に地縛霊みたいに確かな自宅感を持っている人か、
その人といる場所が自宅なのだと思える人と一緒にいたい。
生活感のある人と。
他へ行くことの恐怖をちゃんと持ってる人のそれに共振したい。
それか自宅感なんて、土地との関係なんか捨てて一生遊牧民みたいな気持ちで過ごしたい。
自宅感なく育ってしまったからずっと故郷とか自宅とか探してしまう。
どこでも自宅で、どこでも異界みたいな。
唯一の場所を見つけなきゃって漠然と思う。
google mapの中で迷子になって居たくない…。
しあわせはっぴーにゃんこ感想
しあわせはっぴーにゃんこの感想を書きます。(前半)
全部に対して書けるわけじゃないのですが、ちょっとずつ書きたいです。
しあわせは何の味 あたさん
個人的に留学経験があるのですごく共感できた。
あまりこういうグルメレポートのような文章を読まないので新鮮でした。
紹介されるために脚色されたものではなく、等身大の姿で描かれるパキスタンの料理。
最初の朝に食べるオムレツの書き方とか。思わずお腹押えました。
それに周りにあふれる鷹揚なパキスタン人たちの人柄にほっこりしました。
最後の一章できっかりまとまっていて、好きです。
導けよ烏、君のいる場所まで かみしのさん
「大切なのはバランスではなく物語だ」
勝手に思うけれど、物語に大事なのは始まりと終わりだと思う。
この小説は彼女に去られて傷心しているところから始まる。でもただ傷心してるわけじゃなくて、彼女の面影を追って思い出の土地を巡っている。
物語がはじまるのは井戸に落ちてからのように思えるけど、そうでもない気がする。
「このまま部屋とコンビニを往復する生活を繰り返していたら何かが終わってしまう気がした。」
と主人公が思うシーンがあるけれど、ここでいう「何か」は物語を指すのではないかと思う。
その生活から脱して、六道珍皇寺に向かうところから物語(幸福を追い求める)は始まるのだと思う。
ありとある物語の物語 木野誠太郎さん
すごく面白かった。
まず文章の書き方がすごく好き。木野誠太郎さんの男性目線の書き方は毎回ツボ。
『ペンギン・ハイウェイ』の主人公みたいに、幼いながらちょっと大人びてるというか。
でもそちらよりこっちのほうが好き。
素直な文章で、入り込みやすい。
アイシンカクラや大崎さんに対する気持ちや、情景描写がすごくいじらしい。
私はあまり頭がよくないので、多くのものが二つに分かたれたあとの話は言葉通りにしか受け取れなかったけれど、それでも面白かった。
考えたい人は考えればいいけれど、考えないまま読んでも面白い小説だった。
大崎さんとアイシンカクラの板挟みになる主人公とか、『ことばまじん』や『思想船』の設定もすごく好きだ。
「夢であった少女」のようにタイトルにもきっと意味があるのだろうけれど、わからなかったのでちょっと悔しいです。
個人的には、アイシンカクラが一度も正しく主人公の名前を呼んでいないこととか、
作家の名前を探すところとか。名前がなにかのキーになってるのかなと思いました。
長いけれどすらすら読めるのは、地の文が安定しているのと、会話文が自然だからだと思います。
ポテトチップスと鳩
高校生のとき、嫌いな女の子がいた。
その子はなんというか包んだ言い方をすれば明るいムードメーカーで、それにちょっと事実を付け加えると、クラスの一番地味なグループとお弁当を食べていた。
なんで私が彼女のことを嫌いかというと、明るいことと可愛いこぶることが大好きで、自分を最高に可愛いと思っている致命的なブスだったからだ。
こちらが恥ずかしくなるようなピンクのお弁当袋からピンクのお弁当箱。頭にはサン宝石で買ったリボン、校則鞄につけたレースのフリル。おいおいそろそろピチレモンからは卒業しろよ、と何度叫びそうになったことか。ぼさぼさの髪をいつも撫で、たまに「ふにゃん」と呟くところなど鳥肌ものだ。
カラオケボックスに呼び出され、二人きりの密室で語られた過去のいじめには、内心「そうだろうなあ」と思いながら相槌を打っていた。
彼女の言動は私には心底理解できなくて、嫌いだった。
それは夏休み中のことだった。数学の特別講義が終わって、私は彼女と二人で自転車置き場に向かった。休み中の自転車置き場はがらがらで、いつもは埋まっている空間を呑気に鳩が散歩していた。暑い日だった。
「あ、ハトちゃんだ!」
ハトちゃんて、と私は思ったが暑さと疲れでストレスが溜まっていたので私は心の中でつっこむだけに留めた。
彼女が嬌声をあげながら鳩に駆け寄り、鳩が逃げる様を私はぼんやり眺めていた。
彼女は意図的に「むう~」と呟き、「はっ!」とこれも意図的に口に出してから鞄に手をつっこんでごそごそ探り始めた。
「じゃじゃーん! ポテトチップス~」
コンソメパンチ味のポテトチップだった。それを砕いて鳩に放り投げ始めたのである。
私はポテトチップスの油が鳩の消化に悪くて、食べた後お腹を壊してしまうらしいということを知っていたので、それを彼女に説明した。
彼女は「ふんふん」と頷きながら鳩にポテトチップスを撒くのをやめない。
私はちょっと苛立って、「それ、止めたら?」と低い声で言った。
彼女は笑顔で言った。「なんで?」
「私はいまハトちゃんに囲まれて嬉しいし、私はハトちゃんに餌をあげてるんだから、いいことしてるんだよ? もしこの後ハトちゃんがお腹こわしちゃっても、大丈夫だよ。ハトちゃんきっと丈夫だもん。ねぇーハトちゃん?」
私はそれ以上なにも言えなくなって、彼女が一袋分のポテトチップスを与え終えるのを待ってから、二人で帰った。
話しているとき鳥肌が立つくらい彼女のことが嫌いだったけれど、それでもどうして高校三年間一緒にいたかというと、彼女が私に話しかけてくれた最初の人だったからだ。
人見知りを拗らせすぎていた私は、入学式と自己紹介を終えても誰にも話しかけられないでいた。
そのころはまだLINEなんてアプリはなくて、Twitterすらはじめたばかりだった。周りにはmixiで事前に知り合っていた女子グループがいくつかでき始めていて、そこに社交的な女の子たちが飛び込んで馴染んでいっていた。
私はそれを内心冷や汗をかきながら見守っていた。そんなとき話しかけてくれたのが彼女だった。
彼女はクラスメイト全員に話しかけていたらしいけれど、それでも少しほっとした。そのころから勘違いブス臭はあふれ出ていたけれど、そのときの私には救世主か女神に見えたのだった。
鳩を見ると、たまにその子のことを思い出す。
高校の同窓会ライングループにその子の名前もあって、なんだかなつかしくなりました。